愚陀仏庵の模型と子規と句会の人形を展示

 

 井関農機㈱の退職者でつくる「ISEKIアートクラブ松山展示会」が平成30年3月下旬、松山市堀之内県立美術館で開催され、絵画・写真・木工・書道など多彩な美術品が来場者を楽しませた。木工部では「愚陀佛庵の模型」や「子規を囲む句会」の人形が展示され、子規・漱石・極堂生誕150年にふさわしい作品として注目を集めた。

正岡子規生誕地が新しく整備

 松山市が花園町通りを再開発し歩道を拡張したのにともない、「正岡子規誕生邸址」の石碑周辺も整備された。

 慶應3年(1867年)9月17日(陽暦10月14日)、晴れ、午前9時頃、温泉郡藤原新町(現在の花園町3番5号=石碑の場所)で出生、卯歳。常規(つねのり)と命名された。

 父は松山藩士・正岡隼太常尚、後御馬廻番人、当時35歳。母は松山藩儒者・大原有恒(観山)の長女・八重、当時23歳。

 明治2年3月21日(陽暦5月2日)3歳のとき、湊町新町(現在の湊町4丁目1番地)山内与兵衛の屋敷に転居するまでここでくらした。母方の祖父・大原観山は初孫の誕生を喜び、幼い時から漢詩文を訓育し、子規の成長に大きな影響を与えた。周囲も「儒学者・観山の孫」として温かく見守った。

正岡子規が3歳から16歳まで住んでいた家の跡地

             △場所 松山市湊町3丁目(中の川筋緑地帯)

 『松山子規事典』の写真を伊予銀行道後支店に展示

 

 松山子規会(会長:井手康夫)では平成29年10月、『松山 子規事典』を11年がかりで完成し発売したが、そのグラビアに掲載された写真の一部を拡大して伊予銀行道後支店の協力で展示している。(下4枚の写真)

 

グラビアを編集した佐伯健・松山子規会員は「古い松山の風景を、可能な限り集めた。それらの写真は、子規が生まれ育った時代の松山であり、また子規が明治28年9月から10月にかけて、愚陀佛庵から漱石や友人と俳句を作りながら歩き句集・散策集にまとめた頃の風景でもある。それらを想いながら展示の写真をご覧いただきたい」と解説した。来店して写真を見たお客さんや同行の職員から「この写真、欲しいな」と声が出るほど、関心が高かまっていた。(写真展示は平成29年11月30日まで)